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10世紀頃から中国大陸北方の遊牧狩猟民族の活動が活発になってきました。中でもモンゴル民族は1206年、チンギス・カンが帝位につき中央アジアからインド北西部、南ロシアにまたがる広大なモンゴル帝国を作り上げました。チンギス・カンの孫にあたるクビライ・カンは首都を大都(北京)に移し、国号を中華民族の伝統にならって元としました。そしてさらなる勢力拡大をもくろみ日本を征服する計画に至り1268年、朝鮮の高麗を介して国書を日本に送り朝貢を求めてきたのです。
これに対応したのが鎌倉幕府において18歳の若さで第8代の執権に就任した北条時宗(1251~1284)です。彼は朝廷の意向に背き元の要求を拒否することを決め、返書を送らず使者を追い返してしまいました。国書の内容が無礼で強迫的だったというのです。翌年再び国書が届けられましたが、時宗はこれも拒絶し九州地方で防衛を厳重にすることを指示します。2度の要求を拒否されたクビライは1274年、日本攻撃の命令を下し、「文永の役」(元寇)が始まりました。およそ4万人の元軍は対馬、壱岐を制圧し博多湾から日本に上陸してきました。迎え撃つ日本軍およそ5千人はよく戦いましたが、それまで日本の戦い方であった一騎打ちではなく集団で攻撃してくる元軍の戦法に戸惑い、太宰府近くの水城まで退却しました。元軍は日没とともに船に引き返したのですが、その夜突然発生した暴風雨で多くの船が沈んでしまったこともあり、元軍は風雨の中を退却していきました。当時から人々はこれを「神風」と呼んだのです。
元が再び攻めてくることはわかっていたので、時宗は全国の御家人に呼びかけて博多の守りを固めました。元軍の戦法がわかったので海岸に石垣を築かせ防塁を作りました。クビライは1281年、今度は10数万の大軍で博多を攻撃してきました。「弘安の役」です。堅固な防塁と日本軍の果敢な戦いにより、元軍は優勢ながら海上に長期間、留まらざるをえませんでした。そして再び「神風」が吹いたのです。元軍で生還できたのはわずか2割だったといいます。
日本国始まって以来の国難は「神風」によって退けられたことばかり強調されています。しかし元軍に対して最高責任者として堅固な防塁などの守りを固め、作戦を指示した20歳そこそこの若年であった北条時宗の功績は絶大なものでした。さらに以前より倹約に努め、いざという時のために蓄えをしてきた北条家の精神がこれに対応できたのだとされています。
しかし国難が去って執権北条家を中心とする鎌倉幕府の土台が揺らいでくることになります。新しい領土を得る戦ではなかったため、勇敢に戦った鎌倉武士たちに戦勝の恩賞を分け与えることは、今までの蓄えを戦に使い果たした北条家にはできませんでした。都の朝廷や公家たちも武士たちの活躍を評価せずただ「神風」が国を守ったとの一点張りでした。その中、時宗は満32歳の若さで病死しました。北条時宗は元寇から国を守るために生まれてきたような英雄だったといえます。死因は結核とも心臓病ともいわれています。
北条時宗の死因について、図に示す肖像画が本人のもので間違いがないと仮定すると、結核で死亡した可能性は低いと思います。進行した肺結核では肖像画のようにふっくらと太った人が直後に死に至るとは考えられません。逆に糖尿病などの体質があり、精神的ストレスで食事が不規則になり糖尿病の悪化が心臓血管系の疾患を進行させたのではないかと考えるのが自然だと思います。北条家嫡流を得宗家といいますが、歴代執権のうち得宗家出身の人物は時宗の父親である時頼を始めとして若くして死亡している場合が多くみられます。糖尿病あるいは心臓の異常を起こす何らかの遺伝的素因がありそれが死因につながったのではないでしょうか。