医療あれこれ
医療の歴史(98) 北里柴三郎~その2
北里柴三郎は1892年、ドイツから帰国し東京大学医学部に復帰しました。ドイツでの研究成果を基にさらなる発展が期待されましたが、かつての恩師だった教授の緒方正規(まさのり)と対立してしまいます。その原因は脚気の病因についてでした。緒方は脚気発症の原因は「脚気菌」であるという感染説を述べた論文を発表していましたが、感染症研究の第一人者であった北里はこれを認めなかったのです。脚気の原因は栄養不均衡によるビタミン欠乏であるということを東大自体が認めようとしなかったことはすでに述べましたが、北里は東大全体から批判を受けたのです。帰国後の北里の念願は伝染病研究所を設立して日本において感染症研究を推進することでしたが、この計画が当時から日本の医学界を牛耳っていた東大の反対で暗礁に乗り上げてしまいました。そこで救いの手をさしのべたのが慶應義塾の創始者福澤諭吉でした。福澤の協力を得て私立伝染病研究所(後に国立)を創立することができました。さらに日本で最初の結核治療専門病院である土筆ケ岡養生園を設立して結核予防と治療に尽力しました。また1894年、古来大流行を繰り返していたペストの病原菌であるペスト菌を発見するなど、予防医学の先駆者として活躍したのです。
しかし1914年、伝染病研究所の管轄が内務省から文部省に移管されることになりました。北里は研究所が文部省とその背後にある東大に事実上乗っ取られることになることを悟り、研究所所長を辞任し、1915年、私立北里研究所を設立して初志である実学の精神を貫いたのでした(右の写真は明治村にある北里研究所です)。この北里研究所設立50周年の記念事業として北里大学が設立され1970年には医学部も増設されています。
北里柴三郎の医学発展に対する功績はほかにも、援助を受けた福沢諭吉の慶應義塾に医学部を創設することに尽力し初代医学部長に就任しています。また医師会組織である帝国連合医会を設立し初代委員長に就任しました。この帝国連合医会も、それまであった東大を主体とする明治医会に対抗して生まれた在野の医師の団体でした。