医療あれこれ
医療の歴史(91) 漢方医の抵抗
明治政府は西洋医学導入の前提として、従来の漢方医を除くことを決定しましたが、江戸時代までは日本で医学というと漢方医が主流であり、蘭方医その他の西洋医学は少数派でした。徳川幕府の奥医師もほとんど全てが漢方医であり、西洋医学を実践する蘭方医が奥医師として採用されたのは江戸で牛痘種痘法を初めておこなった佐賀藩医伊東玄朴と、その後開設されたお玉が池種痘所で玄朴とともに種痘普及に務めた戸塚静海(とつかせいかい)の2人が最初でした。
明治になってさらにドイツ医学が公式に採用されるようになると、これまで主流であった漢方医は公式の医療から締め出されるようになってくるのです。これに対して漢方医の団体である温知社(おんちしゃ)を通じて、漢方医の救済を図ったのが浅田宗伯(あさだそうはく)です。浅田宗伯は信濃国筑摩郡(つかまぐん)(長野県)の医家に生まれ、京都で修行を積んだ後、江戸で開業していましたが、江戸幕府のお目見医師に採用されました。フランス公使の難病(リウマチといわれている)を治療するなどの功績をあげ、宮中侍医となりました。1875年、明宮(はるのみや)(後の大正天皇)が生後まもなく全身けいれんにより危篤状態となった状態から救命して名声を得ました。宗伯は漢方にも医学的基礎理論があると主張するなど、漢方医の地位保全を模索していました。「咳、声、のどに浅田飴」のフレーズで有名な、のど飴は浅田宗伯の弟子が創業した浅田飴本舗の商品です。
しかし明治初期の医学界全体をみると漢方医排除の動きは止まりませんでした。政府は1879年、全国統一の医師国家試験を実施することになりましたが、その試験科目は西洋医学の7科目としたため、漢方医はこの試験に合格することができず、漢方だけを学んで医師になる道は閉ざされてしまったのです。温知社は解散に追い込まれ、1894年になって中心的存在だった浅田宗伯は病に倒れ漢方医存続運動は幕を閉じることになりました。