医療あれこれ
医療の歴史(69) 時宗の僧と金創医
時宗は鎌倉時代に一遍上人が開いた仏教宗派です。法然上人の浄土宗、親鸞上人の浄土真宗とともに阿弥陀仏を信仰の対象とし、念仏を唱えることを旨とすることから念仏三宗と呼ばれたりします。その中でも、一遍上人の時宗は、人々の努力や信心の有無にかかわらず「南無阿弥陀仏」の名号を唱えれば誰でも極楽往生できるとしたことから広く普及し、室町時代の初期に最盛期を迎えました。室町文化の中で、例えば能楽の観阿弥、世阿弥など某阿弥という名前がしばしば登場してきますが、この人たちは茶道、花道、書画など文学・芸術の分野に偉大な足跡を残します。彼らの中で医学の知識を身につけた者も多く現われ、時宗の僧医となっていったのでした。
鎌倉後期、南北朝時代、さらに次の世代の戦国時代と、戦乱の続く中で、武士たちに近づいた時宗の僧が、戦場で戦死した者を弔ううちに、戦傷者の手当てもおこなうようになり医術を心得る物が出現してきたと考えられます。また時宗は寺を設けず、放浪しながら布教することを宗旨としていたために、放浪生活を余儀なくされた人たちがその群に加わり、皆、時宗に帰依したともいわれています。
時宗の僧で、室町将軍の侍医になった人物に、昌阿弥がいます。昌阿弥に対する二代将軍足利義詮の信任は厚く、義詮が死の床にあっても、昌阿弥以外の者の診察は拒んだままで亡くなったといいます。また称光天皇の病気治療にあたったという寿阿弥の名前が伏見宮貞成王の日記「看聞御記」にしばしば登場します。
さらに時宗の僧のなかから金創医が現れてきたともいわれます。金創医とは刀剣などの金属製武器による切傷を手当てする外科医のことでその多くが室町、戦国時代以降に現れてきたものです。権大外記中原康富の日記
「康富記」に、後花園天皇の背中に腫物ができた時の治療の様子が書かれています。天皇の腫物を「医心方」を著した丹波康頼の子孫で代々医家を継ぐ丹波頼豊を始め内科医師たちは、とても自分たちの手に負えないといいます。一方、腫物医師久阿の勧めで管領畠山尾張守持国のお抱え医師だった下郷という人物に診察させたところ、下郷はそれをみて、針をするより他に方法はないと言いました。しかし天皇の身体に針をするのはどうかと協議した結果、最終的に下郷に針をさせたという記事があるそうです。つまり腫物医師久阿は時宗の僧医で、彼らのなかから金創医、つまり、外科の専門医が生まれてきたと、酒井シズ氏は述べられています。
引用 酒井シズ:日本の医療史(東京書籍)