医療あれこれ
医療の歴史(68) 室町時代の医療
足利尊氏により開かれた室町幕府は、第3代将軍、足利義満(1358~1408)の代になってようやく安定したものとなりました。南北朝が統一され京都の北小路室町に「花の御所」と呼ばれる優雅な御殿が造られました。以後、応仁の乱(1467年)が勃発して戦国時代になるまでの約100年間を室町時代と呼びます。
室町時代における医療の特徴は、古代からの典薬寮を頂点とした医療制度は全く形骸化し、武家や仏僧から医術を習得した者たちが医療の中心となったことです。この傾向を助長したのは室町幕府で、良医を民間も含めて広く選抜して幕府の医師に任命し厚遇しました。かつて鎌倉時代には良医を朝廷から礼を尽くして鎌倉まで迎えていましたが、室町幕府は幕府内に専属の医療団を形成させたのです。このことにより医療者への志望者が増え、必然的に医療者の層も厚いものになってきました。
さらに特徴的なことは、民間人から医学を学ぶため大陸の明に留学して明医学を修得した人たちが一派を形成するようになりました。当時の明医学は李東垣(1180~1228)や朱丹渓(1281~1365)といった人たちが古代からの中国医学を踏襲しつつ新しい考え方のもとに医術を展開し、「李朱医学」などと呼ばれています。武藏国で代々医業を為していた家に生まれた田代三喜(1465~1544)は明に12年間にわたり留学し、この李朱医学を学んできました。その直弟子の曲直瀬道三(1507~1594)は京都で医師として名をあげ医学教育者として李朱医学を全国に普及させたのでした。田代三喜の学んできた李朱医学は日本の医学において主流を占めるようになったのです。これはのちに「後世派」と呼ばれるようになり、この考え方は後に江戸時代中期になって台頭してきた「古方派」とともに現代漢方の中に脈々と受け継がれているということです。