医療あれこれ
医療の歴史(56) 菅原道真の怨霊
菅原道真(845~903)は儒学者の家に生まれ、そのころの朝廷で政権の中枢を形成していた貴族ではありませんでした。平安時代中期、天皇との結びつきから朝廷での地位を得ていく条件として、文人で教養が高く、官吏としての政務能力が高いことが条件でした。道真は儒教的思想を背景とした政治理念を持ち、優れた実務能力があったことから、宇多天皇に重用され、右大臣にまで登りつめました。この時、これに次ぐ左大臣の地位にあったのが藤原時平(871~909)で、新しく時事情勢にあわせた行政をするべきとの政治理念を持っていたのですが、従来の律令政治を踏襲しようとする道真と政治的対立があったようです。成り上がって右大臣になった道真に対する他の貴族たちの妬みがあったところへ、後ろ盾だった宇多天皇が醍醐天皇に譲位し上皇になられたあと、時平らの讒言(さんげん)などもあり、道真の立場は破局を迎えます。九州の大宰府で太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷された道真は、京に残した妻子を想いながら悲運の中59歳で亡くなってしまいました。
道真の死後、京ではさまざまな事件が発生し、それらが道真の怨霊のためであると全ての都人が盲信するようになりました。病気を始めとしてすべての不祥事は怨霊、物の怪(もののけ)の仕業であるという思想の典型的な例です。醍醐天皇は疱瘡(天然痘)に罹患し崩御され、政敵だった藤原時平も病名は明らかではありませんが、短い闘病ののちわずか39歳で亡くなりました。また下の図にあるように、御所の清涼殿に落雷が起こり、大納言藤原清貫(きよつら)らが即死したのです。
この怨霊を鎮めるため、京で道真は北野天満宮に祀られました。妻子と別れ大宰府へ出発するとき、庭の梅の木に寄せて詠んだ「東風ふかば にほいおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」という有名な歌から、天神様と梅が結びついています。