医療あれこれ

医療の歴史(41) 律令制度と医療

 物部氏との政争に勝利した蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷(えみし)、入鹿の4代にわたって皇室を上回る勢いで、大和政権を掌握していました。645年、中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足は、政権を天皇家に取り戻そうと、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で蘇我入鹿暗殺に及びます。この暗殺事件直後に即位した孝徳天皇は改新の詔を発布し新しい政治を形成していきました。この政変が大化の改新と呼ばれるものです。これを契機にその当時大陸に派遣されていた遣唐使によってもたらされた唐の制度にならい、701年(大宝元年)に大宝律令が編纂されます。これによりわが国は法治国家としての形を整えてゆくのです。

Fujiwara-Fuhito2.jpg 大宝律令の選定に携わったのは、大化の改新後、天智天皇から藤原姓を賜った藤原鎌足(中臣鎌足)の次男である藤原不比等(ふじわらのふひと)や忍壁皇子(おさかべのみこ)らで、この制定により、国政は天皇を中心として、太政官と神祇官の二官と中務省、式部省、治部省、民部省、大蔵省、刑部省、宮内省、兵部省の八省からなる中央官僚機構が骨格として形成され、私有地の国有化、戸籍、租税に関することなどまで事細かな規定がなされていたそうです。

 この大宝律令に含まれる制度のうち21番目に、日本で最初の医療制度である「医疾令」が定められました。医療に携わる医師を政府が養成し、諸国に配置して医療に従事させようというものです。医師を官吏とすることで、医療の国有化をめざしたものと考えることができます。具体的には1316歳の医師の子弟40名を医学生として選抜し、厳しい試験を課して中央政府や地方行政機関に配属していくものです。部門ごとの修学年限や定員は、内科および鍼灸が7年で12名、外科・小児科が5年で3名、耳鼻科・眼科・歯科にあたるものが4年、按摩や呪術にあたるものが3年などでした。9年間かけても修了できないものは退学処分とするなど大変厳しい学制だったようですが、卒業生は医官として従八位の官位や禄が付与されることが定められていたそうです。ただしこの制度は、あまりにも理想的で事細かなことから、どれだけ実効されたかは明らかではないと考えられています。