医療あれこれ
医療の歴史(40) 聖徳太子と医療
聖徳太子は574年、用明天皇の第二皇子として生まれました。推古天皇のもと遣隋使を派遣して大陸の文化を取り入れるとともに、冠位十二階や十七条憲法を定め中央集権国家体制を確立していったと伝えられています。蘇我氏と物部氏の争いで蘇我氏と協調する立場にあったことなどもあり、仏教を深く信仰し593年、四天王寺を建立したといわれます。これは太子が法隆寺を建立したとされる607年より以前のことです。
伝説によると四天王寺には、敬田院(きょうでんいん)、施薬院(せやくいん)、療病院(りょうびょういん)、悲田院(ひでんいん)の四箇院を設置し、高齢者や病気をもつ人の救済にあたったとされています。敬田院は戒律の道場、施薬院は薬草を栽培して病気をもつ人に薬を施す施設、療病院は身寄りのない病気の人を療養させる施設、そして悲田院は困窮した人の飢えを救う施設であったそうです。施療は「あまねく人々を救えば、未来永劫においても疫病の苦しみにあうことがない」という仏典をよりどころにしておこなわれる仏教行事で、聖徳太子の四箇院はこの一つということです。しかし聖徳太子が四箇院を建立したという話はそれからかなり時代が下ってから著された「聖徳太子伝暦」などに出てくるもので、太子の四箇院建立が本当だったのか否かは定かではないようです。
いずれにしろ、この国の政治において中央にいた聖徳太子の仏教崇拝は、医療や福祉の精神に大きな影響を与えたのは事実でしょう。しかし仏典による薬草などをもとにした薬物は、遠くインドなどでないと入手できないものなどがあり、医療の実際としては、精神・心理療法や生活改善指導などが中心となっていったとの事です。
(引用: 酒井シズ 「日本の医療史」、「病が語る日本史」)