医療あれこれ
医療の歴史(121) 森鴎外「医師の心得」
明治の文豪である森鴎外は東京医学校(現在の東大医学部)を卒業後、東京陸軍病院に勤務し陸軍軍医として医師として経歴を積み、最終的には軍医として最高位である陸軍軍医総監(少将に相当)まで上り詰めた人です。その森鴎外が1891年(明治24年)出版された医学書の発刊に寄せた漢文でつづられた文章が発見されたという新聞記事がありました。(2019年6月27日付読売新聞)
1891年というと森鴎外が陸軍軍医として4年間のドイツ留学を終えて帰国し、陸軍軍医学校や陸軍大学校の教官として軍医養成の任にあたる傍ら、「舞姫」の著作など文筆活動を精力的におこなっていました。そんな折、1891年4月10日に京都大学内科教授 笠原光興の編著による医学書「新纂診断学」が発刊され、森鴎外は約400字の漢文でつづられた序文を著していました。本編は現在、国立国会図書館で閲覧可能だそうですが、鴎外の序文は入っておらず、森鴎外記念館館長の山崎一穎(かずひで)さん(日本近代文学)らが埼玉県の鴎外本収集家から入手して調査を進めていたものです。
その内容はドイツで医学を学んだ森鴎外の医師としての基本的な心構えを述べたものです。まず医師は診断において機器に頼ることを戒めています。聴診器などに頼りすぎず自分の目・耳など五感を使った患者の観察をすべきとしています。こういう対応でなければ、不要な処置で指を切断したり、睾丸摘出というこれまた不要な処置を施してしまうなど医療の本質を忘れたことをしてしまうのだといいます。一方で、判断を迷いすぎず即座に処置を開始できる医師がよい医師であるとし、病気の早期発見、早期治療が重要で、のどの切開手術や開腹手術などは避ける必要がないとしています。またこれらとは別に、今どきの病人は自分の体を大切にせず、治療法を避ける傾向にあることも問題であるとも述べています。これらは根本的には現在の医療においても共通する理念なのでしょう。しかし実例をみると19世紀末の日本における医療では睾丸摘出やのどの切開手術がそんな簡単に実施されていたのかという点については驚きを感じます。
医療人としての森鴎外の経歴では、以前にこの項でご紹介した脚気論争が思い浮かびます。(医療の歴史93、医療の歴史94、医療の歴史95、医療の歴史96 ← それぞれクリックしてご覧下さい)英国医学を学び海軍軍医総監になった高木兼寛は麦飯を食べていると脚気を予防できるとしたのに対して、ドイツ医学で陸軍軍医総監になった森鴎外は白米でないとだめだと主張しました。しかし日清・日露戦争で、陸軍では白米を食べていて大量の脚気による病死者をだしたのに対して、麦飯を食べた海軍の脚気病死者は一人もいなかったという結末でした。一般臨床において高木兼寛は「病気を診ずして病人を診よ」と述べています。高木兼寛と森鴎外の二人は考え方が異なるようにも見えますが、両者とも患者を「よく診よ」という基本的理念は当然ではありますが同じであると考えられます。