医療あれこれ
医療の歴史(143) コロナ感染は鎌倉時代の元寇のようだ
昨年のNHK大河ドラマでは鎌倉幕府が成立し北条義時が幕府の執権に上り詰めるまでのこれまでの大河ではあまり描かれていなかった時代がテーマとなりました。三谷幸喜さんの興味深い話の展開もあり評判が大変良かったようです。しかし私たちが学校で教わった日本史には北条義時という執権の名前はほとんど出てきません。教科書的には大河でも中心人物だった尼将軍北条政子と、北条義時のひ孫にあたる8代執権の北条時宗です。時宗が執権となって間もなく、世界最大の帝国モンゴル帝国を築いていたフビライハンから朝貢を求める国書が届きました。しかし時宗はこれを無視し、その後1274年の文永の役、1981年の弘安の役と2度の蒙古襲来がありました。(医療の歴史66を参照してご覧ください。https://www.suehiro-iin.com/arekore/history/66.html )今回のテーマは蒙古襲来が現在の新型コロナ感染:COVIC-19におけるウイルスに対する人間の免疫反応のようだということです。
文永の役はコロナに対する人に備わっている自然免疫の初期反応がおこります。ウイルスに対してもともと備わっていた免疫反応としてサイトカインなど免疫物質が産生されリンパ球などの細胞と合わさってウイルスが排除されます。この時の防衛軍は鎌倉からの幕府軍は間に合わず地元九州勢が中心となってかろうじて敵を撃退したのでした。神風が吹いた、つまり台風が襲来したとの言い伝えは最近の教科書ではあまり述べられておらず、蒙古軍と朝鮮半島の高麗軍の混成部隊内での対立があったなどと記載されています。また鎌倉武士もよく言われるように名乗り上げて一対一の戦いではなく騎馬軍団も含めた集団戦闘の訓練を受けていたとされています。
しかし一度は退却した元軍が再びやってくることは容易に想定されます。文永の役で元の戦法を経験した幕府は、免疫でいうと獲得免疫を得る必要性を体得しました。幕府は免疫記憶をもとに強大な防御態勢を作ります。その一つが博多湾に20 kmにわたって築かれた石垣(元寇防塁)で、蒙古軍の上陸を防ぎ、海に迫る山地など地形の特徴から半ば日本侵攻をあきらめていたところに再び暴風雨が吹き退却していったと伝えられています。鎌倉幕府によって作られた防御態勢は、コロナ感染ではワクチン接種に相当するものでしょう。しかし長大な防塁は1回や2回のワクチンでは出来上がらず何度も繰り返し接種することが必要で、現在の対応に対する戒めになるものと思われます。