医療あれこれ
医療の歴史(138) 平清盛の死
先日放送されたNHK大河ドラマに、平安時代末期の保元の乱(1156年)、平治の乱(1156年)で源頼朝の父であり源氏の棟梁であった源義朝との戦いに勝利した平家の棟梁、平清盛(1118年~1181年)が病没する様子がありました。テレビの歴史ドラマですから死因を推測できるような場面はもちろんありませんが、清盛の死因については以前から様々な説が述べられています。
本項では平清盛の死因は、平安時代の日本においてもこれが原因での死亡者数が多かったとされる「マラリア」ではなかったかとする多くの説があり、そのように記載しました。(2015年3月22日医療の歴史(60)平安時代のマラリア) 多くの記述で最期は高熱により苦しんだ状態は共通しているようです。当時の『平家物語』延慶本・第三本(巻六)十三「太政入道他界のこと」頭痛から始まった高熱発作で意識不明となりされており、身体の熱さは火をたいたようで、比叡山で最も冷たい水があるとされる千住院の井戸からから運ばせた水をかけるとたちまち熱湯になったと書かれています。藤原定家の日記『明月記』では、その死に際して「動熱悶絶の由」という噂があったとされており、マラリアのような高熱を生じる感染症であった可能性は高いと思われます。近代の文学作品の中にも、吉川英治の『新・平家物語』や、森村誠一の『平家物語』など記述の中に平清盛の死因は「マラリア」であった可能性を示唆するものが多くみられています。
しかし現代に至ると、想定されている病状からして「マラリア」死因説は疑わしいと記述しているものが多くなりました。根本的に「マラリア」は熱帯地方に多い蚊(ハマダラ蚊)が媒介して感染するものです。現代とは異なり源平の時代には「マラリア」は日本にも蔓延していたという説を採用したとしても、清盛が発病し死に至ったとされる閏2月では根本的に季節があわないという記述は納得できるものです(医師で歴史研究家 大坪雄三『英雄たちの臨終カルテ』)。しかしこの著書によると、平清盛の死因は高熱によると思われる激しい頭痛という症状から脳出血などの脳血管疾患であろうとしていますが。
今最も可能性が高い平清盛の死因はA群溶血連鎖球菌感染症、これによる「猩紅熱」でしょう。病みついた日から「水も喉をとおらなかった、燃えるほどの高熱、多少の時間経過の後、声が震え、呼吸が弱く皮膚が朱をさしたほど赤い」などの症状から「平清盛は猩紅熱により全身状態が悪化し死に至った」という可能性が示唆されます
(赤谷正樹:平清盛の死因.日本医史学雑誌(2016)、62巻3~15)。
この論文ではまた平清盛の腹心であった藤原邦綱の存在を挙げています。邦綱は近距離で清盛に仕えておりおそらく 1~2 m の間隔で接していたとすると、直接感染した可能性が高いことや、この主従は臨床症状や臨床経過がほぼ同一であったことから清盛の猩紅熱は邦綱から感染した可能性があるというのです。興味深い考察だと思います。