医療あれこれ
医療の歴史(133)日本における結核
日本において最初に結核感染があったのはいつ頃なのかについて、鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡で発掘された5000の人骨で発見された脊椎に拡大した結核感染(脊椎カリエス)の2例が発見されたそうです。この遺跡はいつ頃のものかというと弥生時代で紀元前2世紀から紀元後2世紀のものです。これより前の時代、縄文時代(紀元前8000年から300年)の三内丸遺跡などから出土した人骨約1000例からは結核の痕跡は発見されていません。このことから日本において結核が発病したのは弥生時代であり、この時代の人は大陸から渡来してきたとされていますので、弥生人は感染した結核とともに日本に入ってきたものと考えられています。
時代は下って古墳時代(300~500年)になると、千葉、東京、宮崎という少なくとも3ヶ所の遺跡から出土した人骨から同じように脊椎カリエスの痕跡が発見されています。このことから古墳時代になると結核感染は日本に広く拡大していたと想定され、多くの人を苦しめていたのでしょう。
文書に残る結核感染の歴史では、平安時代に記された清少納言の枕草子や紫式部の源氏物語に結核感染の事が書かれています。枕草子にある「胸の病」はその様子から心臓疾患というより肺結核のことであると考えられています。肺結核にかかった若い女性が哀れであると同情している様子が記されています。また源氏物語には紫の上が胸の病を患い、光源氏が悲しんでいると書かれています。
鎌倉時代末期の遺跡として、鎌倉市由比ヶ浜南遺跡から多数の人骨が出土していますが、これは南北朝時代の初め新田義貞が鎌倉に攻め入った時に死亡した兵士と思われています。この遺体の中から脊椎カリエスと思われる変形した骨から結核菌のDNAが検出されたそうです。鎌倉幕府の兵のものか新田義貞軍の兵のものか判りませんが、戦に明け暮れる武士たちも結核に悩まされていたのです。
江戸時代になると結核は労咳(ろうがい)と呼ばれていました。微熱や咳が続き体全体の衰えが次第に明らかになってくる様子が想像されます。またおそらく家族内感染によると思われますが、一つの家の中に結核患者が出ると、周囲の人はこの家を避けるようになり、差別や偏見が生まれます。患者を外には決して出さず納屋や蔵に閉じ込めてしまったといいます。そしてこのような風潮は明治時代になっても続いていくのでした。