医療あれこれ
医療の歴史(102) 大正・昭和初期の医療
明治期、日本の医療は大きな変革を遂げました。江戸時代まで漢方医、東洋医学が医療の中心でしたが、江戸末期から西洋医学を導入する方向性が打ち出され、オランダ、ドイツあるいはイギリスの医学が日本にもたらされてきたのはこれまで見てきた通りです。医学の専門領域によって異なりますが、明治時代に確立されていったのは東京大学医学部を頂点としたドイツ医学です。実際の医療に必要な医薬品などはほとんどがドイツから輸入されたものが用いられドイツ式の医療が展開される体制が整いつつありました。
このドイツ一辺倒の状況に変化を与えた要因の一つが、大正時代に勃発した第一次世界大戦(1914~1918)でした。この時、日本は米英の連合国側の立場にあり、ドイツは敵国であったことから、それまで日本の医療を支えていたドイツ製の医薬品が輸入されなくなったのです。ドイツはすでに搬送中にあった日本への輸出品も差し止めるようになりました。このことに対する対応として日本で変化してきた典型的な事柄が、日本独自に開発される新規の国産医薬品の開発でした。日本で使用される医療用品の多くが国産のものに置き換わり、現在でも日本において中心的存在を占める製薬会社の多くは、この時代にその母体が作られてきたのでした。
昭和に入って、1929年の世界恐慌勃発は単に経済だけでなく日本における医療にも大きな影響がおよびました。衛生状態をみると、労働者や農民の生活は圧迫され、その結果として国民の体力低下は著明となったのです。これを示す一つのデータとして徴兵検査の結果における推移があります。徴兵免除となる不合格者は大正末期の1920年には千人あたり250人であったものが、1930年代になると300人から400人に増加しました。さらに疾患による死亡者数は増加し、特に明治期からの結核患者数の増加は明らかでした。この傾向は戦後すぐまで続き、正確な統計結果としては厚生労働省(当時の厚生省)公開の死因別年間死亡数は終戦直後の1950年まで第一位は結核でした。
戦前の政府における人口政策は戦争に送られる兵士数を増やす目的もあり、いわゆる「産めよふやせよ」でした。このことから高い出生率が維持される一方、疾患の発生率は増加し、日本の人口動態は多産多死型となっていったのです。