医療の歴史(51)でご紹介したように奈良時代から医療は僧侶がおこなうことが中心でした。その中で、医療者としてはあまり知られていませんが、有名な看病僧の一人に唐から来日した鑑真がいます。
鑑真は688年、唐の長江河口近くの揚州の人で、14歳で出家し長安・洛陽で仏教を学び、唐国内で戒律を教え広めて名声を得ていました。そのころ仏教の普及のため本格的な伝戒師を求めていた日本から僧栄叡(ようえい)・普照らが唐に渡り鑑真に誰か日本で戒律を広める人物を紹介してくれるよう懇願したところ、742年、鑑真自身が決意し渡日することになりました。しかし難破などで5回も渡海に失敗し、そのうちに自らは眼病を患い失明してしまいます。最終的に753年、遣唐使の帰国船に乗ってついに日本に渡ることに成功し、翌年には平城京に入り、東大寺に迎えられました。そして大仏殿前に戒壇を設けて、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇を始めとして、多くの僧侶が鑑真から受戒したのです。758年に大和上(だいわじょう)の号を授けられ、のち東大寺から移った唐招提寺に現在もまつられています。
鑑真は戒律だけでなく医術についても詳しい知識を持っていました。来日にあたって多くの珍しい薬物を持参し医術の普及にも大きな貢献をしたのです。医療の歴史(50) でご紹介した正倉院薬物の中に遠くアラブ産のものも含めて多くの外国産の薬物がありますが、その中に、鑑真が来日するときに持参したであろうと考えられているものがあるそうです。何度も渡海に失敗して盲目となった鑑真は、匂いだけで薬物を鑑定することができたといわれていますが、それは実物を知らなかった日本の医療者にとって大変重要な情報でした。
聖武天皇の母、藤原宮子の病が悪化したとき鑑真が呼ばれて治療し、その時に使用された医薬が奏功したことによって鑑真は僧としての高い位が授けられたのです。また聖武太上天皇が重体に陥った時、看病僧126名が朝廷に召集されましたが、この中にもちろん鑑真も含まれています。治療の甲斐もなく756年、天皇は崩御されましたが、この僧たちの租税負担が免除されることになったそうです。