前回ご紹介したように、政権の中心にいた藤原四兄弟が天然痘により世を去り、朝廷や中央政界はその形態を維持できないほどになっていました。地方でも疫病の流行や飢餓により国全体が荒廃し政情は全く不安定状態だったのです。
さらに追い討ちをかけたのが、740年に勃発した藤原広嗣の乱です。藤原広嗣は、藤原四兄弟の三男で四兄弟のうち最後まで生存していた正三位、参議、式部卿の藤原宇合(うまかい)の長子で、九州の太宰府に赴任していました。九州地方の惨状を目の当たりにした広嗣は、この社会情勢は中央政府の失政によるものだとして反乱を起こしたのです。藤原広嗣の乱は何とか鎮圧されましたが、政府の動揺はおさまらず、ときの天皇、聖武天皇は都を平城京から恭仁京(くにきょう:京都府木津川市)、難波京(大阪市)さらに紫香楽宮(しがらきぐう:滋賀県甲賀市)に次々と遷都しました。また疫病の流行地に医師を派遣したり、病人に医薬を与えるなどの措置を実施し、何とかこの危機を解消しようとしていました。
もともと仏教を厚く進行していた聖武天皇は鎮護国家の思想により安定をはかろうとし、741年、国分寺建立の詔を出し、国ごとに国分寺、国分尼寺を設けさせることにしました。ついで743年、紫香楽宮で大仏建立の詔が出されたのです。745年に奈良平城京にもどった聖武天皇は娘の孝謙天皇に譲位した752年、奈良東大寺大仏が約9年間の歳月をかけて完成し、大仏開眼の壮大な儀式が執り行なわれました。この儀式には大勢の政府関係者の他、インドや中国から渡来した僧を含め約1万人の僧が参列したそうです。これは後述しますが、当時の医療者の中心が僧医であり朝廷や政府高官の病の診療に携わったことから朝廷から厚い信任を得る場合が多かったことと関連があったと考えられます。