医療の歴史(11)床屋外科でふれたように、古代から外科医は、医療者というより、刃物を使い人の体に傷をつけて血をあびて仕事をする人として卑しめられ不当に低い身分に見られていました。大学の外科学教授は学生に外科の講義はしますが、自ら刃物を持って手術をすることはなかったそうです。手術は医学に関する教養がない助手に実技をさせ、それを学生に見せるだけの存在でした。それが16世紀になるとそれが少しずつ変わり始めたのでした。この時、大きな功績を残したのがアンブロアズ・パレです。
パレは1510年フランス北西部のブルターニュ地方に生まれ、フランスに出て「床屋外科」に奉公します。大変な努力家で修業を積み腕をみがいたパレは、1537年フランス国軍のモントジャン将軍の軍医に抜擢されます。そして北イタリアの戦地に従軍して負傷兵の手当を行ったのです。その頃の戦争は、以前のように刀で斬りつけ合うのではなく、銃火器という新兵器が主力を占めるようになっていました。銃で撃たれた傷は刀で切られた傷口より大きくすぐに化膿していったのですが、それは火薬に含まれる「毒」のせいだと考えられていました。そこで銃創の治療は、火薬の毒を取り除くため、焼きゴテで焼いたり、煮えたぎる油をかけたりするのが当時の治療法でした。痛み止めなどない時代ですから、銃創を負った兵士はその恐ろしい治療の痛みと苦しみのため七転八倒したのでした。しかし傷口は治るどころかどんどん悪化していきました。
ある時、パレはその銃創治療に使う油の手持ちを切らしてしまいました。しかし負傷兵はどんどん運び込まれてきます。困ったパレは、油の代わりに卵黄と油をまぜて軟膏を作り、負傷兵の傷口に塗ったのです。すると兵士の傷の痛みは軽く、腫れもひどくなく、いままでの治療では考えられないほど快復していったのです。いままでの治療は、負傷兵を痛めつけるだけで効果はない、軟膏による治療がよいことを知ったパレはその後、「銃創の処置法について」という医学書を著します。
その頃、パリ大学の解剖学教授であったシルヴィウスは、パレの外科医としての実力を認め、解剖学を教えたのです。それまで基礎的な医学知識がなかったパレは、人体について学び医学者として実力を発揮することになるのです。さまざまな手術法の開発の他、包帯法の改良、義足など装具の開発など外科学にとって多大な功績を残したパレは、最終的にフランス国王シャルルの主席外科医という地位に登りつめたのでした。
このように外科学の地位はパレの昇進とともに徐々に上がっていきました。しかし本当に外科医が内科医と対等な立場になるのは、19世紀になってからのことです。19世紀に外科が画期的に発展するのはどのような事がきっかけになったのでしょうか。