医療あれこれ

医療の歴史(88) 東大医学部の誕生

 東京大学医学部の前身である医学校設立にあたり1871年、外科学を教えるドイツ陸軍軍医レオポルト・ミュルレルと内科学を教えるドイツ海軍軍医テオドール・ホフマンが来日しました。一方、前回ご紹介したイギリス人医師ウィリスは、西郷隆盛により鹿児島医学校に招聘されました。その結果、鹿児島では英語での英国医学教育がおこなわれるようになったのです。ドイツ医学と英国医学の違いは、ドイツ医学が研究室での実験結果を基礎として医療を実践するとしたのに対して、英国医学は実際の症例を基として医療を実践するものでした。しかし現実問題として当時の日本における医学・医療はどちらを採用しても差はない程度の未熟なものであったといいます。

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東大医学部の発祥の地は、伊東玄朴が種痘を始めた「お玉が池種痘所」の地で、その後、幕府はこの種痘所を廃止して西洋医学を享受する医学所としました。1868年の明治維新の後、明治政府は横浜にあった横浜軍陣病院を下谷藤堂邸に移し、そこに医学所を含めて、「大病院」と改称し、英国人医師ウィリスが1年間だけ講義を受け持ったのです。この「大病院」はさらに「医学校兼病院」と再度改称し医療関係施設の統括機関になりました。さらにそれを統括する上部機関として1871年「大学校」が設けられ、神田一橋にあった開成学校が改称された「大学南校」に対して、「医学校兼病院」は「大学東校」となりました。この「大学東校」は単なる医学校ではなく医療行政機関でもあり、初代校長にポンペの弟子であった佐藤尚中が就任しています。そのころ政府では文部省が新設されドイツ医学を正式に採用すると決定し、ドイツからミュルレルとホフマンが着任したことに伴い「東校」と改称されました。さらに1874年「東京医学校」となり、本郷に移転され1877年、大学南校(東京開成学校)と合併して東京大学医学部になったのです。さらに東京大学は東京帝国大学となり、大正時代に入って1919年、学部制が敷かれ最終的に東京帝国大学医学部と称するようになりました。このように東大医学部は他大学医学部や医科大学と異なり、幕府の医学所を引き継いだ政府所属の行政機関でもあったことから、全国にある医学部の頂点でした。東大医学部生は初めには蘭方医学を学んだ者たちでしたが卒業後ドイツに留学して、帰国後、日本各地の医学部教師として赴任しドイツ医学を教授していったのでした。