医療あれこれ
医療の歴史(87) 明治維新と西洋医学の採用
第十五代将軍徳川慶喜による大政奉還から始まる明治政府は、新体制の下どのように医療制度を定めていくのか模索していました。医学は西洋医学に限るべきでこれまでの漢方医学は新体制には相応しくないというのは一致した見方でしたが、どの国の医学を手本として医学校を開設し日本人医師を養成していくのかが問題となりました。それまで西洋医学というと、江戸幕府の鎖国政策中も唯一欧州の知見を伝えたオランダから伝来した蘭方医学でした。しかし日本で入手する蘭方医学書はほとんどがドイツ医学をオランダ語に翻訳したものであったなど、オランダは世界的に見て医学の先進国ではないことは誰の目にも明らかでした。
日米和親条約締結以後、ロシア、英国、フランスなど各国との通商条約締結に基づいて、各国の公使館や領事館が開設されましたが、それぞれに公使館、領事館付きの医師が来日することになりました。その中で、英国の公使館付き医師ウィリアム・ウィリスは英国公使から推薦を受け新政府の要請で、薩摩・長州を中心とした新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争における負傷兵の治療を依頼され功績を挙げたのです。つまりウィリスは新政府軍の軍医として活躍したことになります。このことから明治新政府はウィリスと1年契約で官立医学校としていた「大病院」(東京大学医学部の前身)の教員に迎え英国医学を公式に採用する計画を立てていました。しかしこれとは別に、当時ドイツ医学が欧州で優位に立とうとしているという情報をオランダ人医師らから得ていた新政府は、最終的にドイツ医学を導入することになったのです。英国人医師ウィリスは官立医学校教員の職を辞し、戊辰戦争のころから親交のあった西郷隆盛の薦めにより鹿児島医学校へ移ることになりました。これによりドイツ医学が主であるという第二次大戦後までの日本における医学の流れが確立したのでした。