医療あれこれ
医療の歴史(86) ポンペが伝えたオランダ医学
1854年の日米和親条約締結により長く続いた鎖国は終わりました。幕府は海防政策の一つとして長崎に海軍伝習所を開設しましたが、ここへ軍医養成のための医学教育をおこなうため1855年、オランダ海軍軍医ポンペ(ポンペ・ファン・メールデルフォールト)が着任しました。ポンペは多くの門人たちにオランダのユトレヒト軍医学校の課程に準拠して基礎医学と臨床医学を系統的に講義する医学教育をおこなったのです。基礎科目としては物理学、化学を含めて解剖学、生理学、病理学などであり、臨床医学として内科学、外科学、眼科学などが講義されたといいます。臨床医学教育に際して、実際の診療をおこなう医学校併設の日本で最初の西洋式病院であるベッド数120床をもつ長崎養生所が作られました。
「ポンペ日本滞在見聞記」によるとポンペが滞在中に診療した患者数は一万四千名余りに及んだといいます。なかでも肺病や眼病患者が多いという記録があります。またポンペが驚いたのは日本人の三人に一人は天然痘の後遺症である「あばた顔」で、その当時天然痘の流行がいかに猛威を振るっていたかが想像され、これに対応するため千人余りの日本人に種痘をおこないました。
ポンペの筆頭弟子に松本良順(りょうじゅん)がいました。良順は幕府の医師であったのですが長崎海軍伝習所でポンペから蘭方医学を学ぶとともに医学教育の助手を務め、長崎養生所設立に尽力しました。彼は明治維新後、陸軍軍医総監に就任しています。また1862年のポンペ離日の際には、良順は伊東方成(ほうせい)と林研海の二人を幕府留学生として欧州へ随行させました。二人はユトレヒト軍医学校で医学を学んだあと、方成は帰国後、明治期になってドイツへ留学し明治天皇の侍医となり、研海は帰国後、日本陸軍軍医総監となったのです。