医療あれこれ
医療の歴史(85) 緒方洪庵の適塾
緒方洪庵は備中(岡山県)足守(あしもり)藩の下級武士の三男として生まれました。16歳の時、大坂に出て蘭方医中天游(なかてんゆう)に医学を学び、天遊の勧めにより江戸へ出て蘭方医坪井信道に入門し医学とオランダ語の修得に励みました。その後、長崎でのさらなる語学修行を経て1838年に大坂瓦町に医学塾「適々斎(てきてきさい)塾(適塾)」を開いたのです。適々斎は洪庵の別号です。
適塾は患者の診療をする病院と医学教育施設であり、現在の大阪大学医学部の前身です。また当時の蘭方医学教科書を確実に理解する必要があることから、オランダ語教育をおこなっていました。緒方洪庵自身も「扶氏経験遺訓(ふしけいけんいくん)」などオランダ語の医学書を翻訳しており、自著では日本最初の病理学書「病学通論」などを刊行しています。
代表的な医療活動としては、天然痘撲滅のための種痘の普及活動があります。シーボルト門下で京都において牛痘接種をしていた日野鼎哉(ひのていさい)から種痘苗を譲り受け種痘活動を進めましたが、漢方医らの反対や世間一般の悪評のため困難を極めたといいます。ようやく大坂奉行所より種痘所設置の許可がおり「除痘館」が設置され種痘普及活動は軌道に乗りだしました。
またもう一つ洪庵の医学的業績としてコレラ治療があります。1858年、わが国で2度目のコレラ大流行がありました。コレラはコレラ菌の経口感染症であり、米のとぎ汁様の下痢が続き、脱水症のため重症化していきます。水分補給と現在では抗菌剤で適切な治療をおこなうと治癒するものですが、当時は水分補給という治療さえ知られておらず、感染者は「コロリと」亡くなってしまう恐ろしい病気でした。洪庵は患者を治療しながら、蘭学医書の内容から「虎狼痢治準(ころりちじゅん)」という治療法を著述し刊行しています。
適塾は慶応義塾の創始者である福沢諭吉など、明治期に活躍する多くの塾生を輩出しました。しかし福沢諭吉は教育者、蘭学者、であって医師ではありません。上述の医療活動は、適塾が診療所と医学研究教育施設であったかのようにみえますが、実際は医師養成に限らず蘭学を通じた各層の養成施設であり、蘭語塾と呼ぶのが相応しかったようです。