医療あれこれ

医療の歴史(81) 解体新書の刊行

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 山脇東洋の「蔵志」以降、精密な人体構造の解明をめざした解剖が続けられていました。例えば長州藩医の栗山考庵は初めて女屍の解剖をおこなったり、東洋が成し得なかった頭部の解剖をおこなった古河藩医の河口信任らがいます。さらに若狭小浜藩医の杉田玄白は、自分たちで人体解剖を完成させる前に先人の業績を知ることが必要であると考えていました。鎖国中の江戸時代で西洋医学の情報を体得することができるのは交易のあったオランダであったことから、玄白はオランダ語の学修が必要という考えに至り、オランダ語に精通していた中津藩医の前野良沢とともにオランダ通詞に面会したりしていました。

 その時たまたま小浜藩で同僚の中川順庵から、ドイツ人医師クルムスの著した解剖学書がオランダ語に翻訳され「ターフェル・アナトミア」として出版されていることを紹介されました。玄白と良沢は入手した「ターフェル・アナトミア」を携えて、江戸小塚原刑場でおこなわれた腑分け(ふわけ:内蔵の解体)を見学する機会を得たのです。その結果、人体構造は今までの漢方の知識が正確ではないことを目の当たりにすることになりました。つまり人体構造は「ターフェル・アナトミア」に書かれているとおりだったのです。日本で医学を広く普及させるためには「ターフェル・アナトミア」の日本語訳を出版することが必要不可欠であると悟った玄白と良沢さらに中川順庵の三人は、苦労を重ねて1774年「解体新書」を完成させたのでした。ところで「解体新書」の翻訳で主役を果たしたはずの前野良沢は「解体新書」の著者に名を連ねていません。完全主義者の良沢は、不完全な翻訳が残る「解体新書」を良しとしなかったためといわれています。