医療あれこれ
医療の歴史(77) 生類憐れみの令
五代将軍徳川綱吉が1687年に出した「生類憐れみの令」は全ての生き物の生命を大切にするということから、綱吉のことを犬将軍などと呼ばれていた事は有名な話です。この定めの背景にあるのは当時の社会情勢で、士農工商という身分制度から農民は武士に次ぐ大切な身分であるとされながら、有力な農民から下層の農民まで貧富の差が広がり、零細農家では子供が生まれても育てる資金がないことから捨て子が横行していました。またそれまで農耕に使われていた馬なども老化して病気となると捨て馬となっていったのでした。儒学や仏教の思想から当然のように生き物を大切にすることが社会の荒廃を救うことになると考えた綱吉は、捨て子、捨て老人、捨て馬を禁止するということを主旨にこの定めが形成されていったということです。結果的に子供や老人の生命を大切にするという医療や健康増進につながる社会的風潮が生まれていったと思われます。
また綱吉の時代には幕府の医療制度も整えられるようになりました。江戸城内で病人がでるとすぐに診療にあたる奥医師と呼ばれる医師が選任されるようになりました。身分は武士と同じであり、最も位が高い医師は老中に次ぐ若年寄重責の幕府役人の配下であり、男子禁制であった大奥へも出入りが許されていたのです。診療科目としては、本道と呼ばれた内科、外科、鍼科、眼科、口科などがあり、10名以上の大人数の医療職集団が形成されていたそうです。奥医師に次いで、奥詰医師、御番医師、寄合医師、御目見(おめみえ)医師などの医療制度が確立されたのは六代将軍徳川家宣の時代だったという説もあります。
綱吉は薬草や薬種の採薬を奨励して、綱吉の別邸があった小石川に小石川御薬園という大規模な薬園が開かれるようになりました。綱吉自身も医学的知識が豊富であり、晩年には徳川家康のように自身で薬を処方していたそうです。
ところで歴代将軍は三河(岡崎市)の大樹寺に墓が設けられ、位牌は将軍の身長にあわせたものが置かれています。そのため将軍が亡くなると身長を測定するというならわしがあったそうです。それによると当時の日本人の平均身長160cm弱に比べて、綱吉は142cmしかなかったと想定され、成長ホルモンの分泌異常などの内分泌疾患があったのではないかとされています。最後は江戸で流行していた麻疹(はしか)に罹患し、1709年の冬、68歳であっけなく亡くなりました。