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医療の歴史(65) 「尼将軍」北条政子

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 平家を討伐し鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻、北条政子(11571225;右の絵)は伊豆の豪族、北条時政の長女で、平家により伊豆へ流されていた源頼朝の監視役でしたが、時政が上京中に頼朝と恋仲になったとされています。頼朝亡き後、征夷大将軍となった嫡男の源頼家、次男の源実朝が相次いで暗殺されたあと、北条時政が執権となり京の摂関家や皇族から招き入れた幼い傀儡(かいらい)将軍の後見人となって幕政を握るという執権政治に移ってき、源実朝のあと、摂関家の藤原頼経を第四代征夷大将軍として鎌倉へ迎えます。しかしその頼経はまだ2歳の幼児であり、主人の源頼朝の死後、出家していた政子は、将軍の実質的な後見人として将軍の代行をすることとなり「尼将軍」と呼ばれるようになりました。よく歴史物語に出てくる有名な話として、皇権の回復をもくろむ後鳥羽上皇が、承久3(1221)、時の執権北条義時追討の院宣を出しました。これに動揺した鎌倉の御家人に対して、北条政子は「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い」という声明を発表して御家人の同様を収めたといいます。

 鎌倉初期を動かした中心人物の北条政子について、鎌倉幕府をまとめ上げた賢婦人であったと評価される一方、その激しい気性から病的といえるほどの異常性格者であった可能性も指摘されています(服部敏良:「鎌倉時代医学史の研究」)。実子の第2代、第3代将軍の暗殺に直接ではないにしろ関わったことや、幕府の実権を実質的に源氏から奪い取り平然としていたことなどからも明らかだというのです。

 北条政子の晩年はどうだったかというと、異常気象が原因で農業においては凶作がつづき、疫病の流行が絶えなかったといいます。平安時代に比べて13世紀の鎌倉時代は急に気温が下降した時代だったそうです。北条政子が罹患した疫病が何であったかは明らかではありませんが、興味深いのはその治療体制です。主治医は僧医の行蓮という人物でしたが、さらに陰陽師6人が加わっており医療体制の統一性に欠けていたのではないかと想像します。例えば新築なった新御所へ北条政子を移そうとしても、行蓮と陰陽師の意見が食い違いなかなか実行できなかったそうです。現在でいうとチーム医療が全く実践されていなかったということになるのでしょう。