医療あれこれ
医療の歴史(64) 梶原性全の医学書「頓医抄」
現存する日本最古の医学書として928年に丹波康頼の「医心方」を医療の歴史(46)でご紹介しましたが、鎌倉時代になると僧医でありながら、より民間に近い立場で漢文ではなく、仮名まじりの文章で著された医学全書が著されました。これは梶原性全(かじわらしょうぜん:1265~1337)による「頓医抄」です。
梶原性全の生涯については記録も少なく詳細は不明ですが、鎌倉の梶原郷に武家の子として生まれ、京で仏典を学び僧医として医術を修めるとともに、代々典薬頭をつとめる丹波氏や和気氏などからも医学を学びました。そして庶民を対象として医業をおこないながら、40歳になって日本で最初の仮名まじりの医学全書「頓医抄」を著しました。そのころの医業は、むやみに他者に教授するものではなく、秘法として一族だけで保有するものという風潮がありました。医業による利潤追求に走るばかりの医師たちが多くなったことを嘆き、人を救う医業を広く普及させたいという思いがあったのです。
「頓医抄」は、古来の医学的知識を踏襲しつつ、新しく中国の宋からもたらされた医書を深く研究し最新医学の集大成として著された当時の最新医学の集大成と考えられるものです。50巻からなり、疾病およびその予防のための養生についてのことや、医療の倫理についてまで幅広い事柄が詳細に述べられています。それまでの医書と異なり、中国からの原典をそのまま引用するのではなく、性全自身のことばとして書かれていることや、日本の医書として初めて人体解剖図が記載されている特徴があります。それぞれの巻末には、「病気の人を目の当たりにしてから医書を調べるのではだめで、普段から読んで理解しやすいように」、あるいは「広く人々を救済するために秘伝をすべて公開して誰もが理解しやすいように仮名書きにした」と述べられています。
彼はまた50歳になって、もう一つの医書「万安方」を著しました。こちらは漢文で書かれた62巻ですが、我が子の冬景やその子孫のために残したと記されています。そしてこの書は我が子のためだけのものであって、決して他人に見せてはならないとも記されています。「頓医抄」には「広く秘伝を公開する」と述べていることとは正反対で少し奇異に思われますが、酒井シズ氏は、「我が子を思う親の情けには勝てなかったのだろうか」と述べられています。