医療あれこれ
医療の歴史(47) 天然痘で倒れた藤原四兄弟
藤原氏は後年、平安時代中期に中央政権において藤原道長を代表とするように絶大な権力をふるいました。最初に藤原氏を名乗ったのは、645年当時の権力者であった蘇我入鹿を殺害し天皇中心の政権を作った大化の改新において中大兄皇子(後の天智天皇)とともに活躍し、天智天皇から藤原姓を賜った中臣鎌足(藤原鎌足)です。
鎌足の次男である藤原不比等(医療の歴史41参照)は708年、右大臣となり政権の中央に座り、720年(養老4年)の死後、正一位太政大臣を贈られています。これらのことから栄華を誇った藤原氏の実質的な開祖は藤原不比等であると考えられます。また不比等は天智天皇から大変な厚遇を受けたことから、平安時代後期の歴史物語「大鏡」などには、不比等は藤原鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤である可能性が記載されています。
ところで720年の不比等の死因については謎もあり、毒物による中毒説などもあるそうですが、当時の疫病流行を考えると痘瘡(天然痘)ではないかと考えられています。天然痘は天然痘ウイルス(右の電子顕微鏡写真)が病原体で、空気中からの飛沫感染や患者の膿などへの接触感染が原因で発症します。発症すると高熱が続き、豆粒状・丘状の皮疹が頭部・顔面から全身に拡がり、内蔵障害を伴って重症になると呼吸困難で死亡するものです。天然痘の歴史は古く、紀元前エジプトのミイラにも天然痘感染の跡が残っているそうですが、以前この項(医療の歴史20参照)でもご紹介したように、1796年、ジェンナーが開発した種痘法により、天然痘ウイルスは現在地球上から完全に撲滅されています。
日本では6世紀の初めにも大流行があり物部守屋が発症したことは以前にご紹介しました(医療の歴史39)。奈良時代では、714年頃から日本と交易があった朝鮮半島の新巍で天然痘の大流行があったのですが、日本から遣新巍使が派遣されたとき、多くの人が天然痘に感染し、生還した人は天然痘ウイルスを日本に持ち帰ったことになり、735年頃から日本でも大流行がおこりました。当時の朝廷内にも流行は及び、藤原不比等もこの病に倒れたのではないかと考えられます。
不比等には4人の子息がいました。長兄から順に藤原武智麻呂(藤原南家)、藤原房前(ふささき:藤原北家)、藤原宇合(うまかい:藤原式家)、藤原麻呂(藤原京家)で藤原四兄弟といわれています。皆それぞれ若い頃から政権の要職にありましたが、不比等の死後、政権の首班となった皇族の長屋王を策謀により自殺させ藤原氏中心の政権を作り上げたのです。しかしこの四兄弟も次々と天然痘を発症し、若くして亡くなってしまい、藤原氏は大打撃を受けたのです。また藤原氏だけでなく、多くの官人もこの疫病で亡くなり、朝廷で恒例の年中行事も実施できない状態になったのでした。