医療あれこれ
医療の歴史(42) 律令制で設置された典薬寮
律令制のなかで、実際に医療者養成機関として制定されたのが典薬寮(てんやくりょう、くすりのつかさ)です。大宝律令で定められた中央官僚機関のなかに現在の厚生労働省にあたるものは存在せず、典薬寮は宮内省に属する部署として設置されました。それは典薬寮では、医療関係者の育成および薬剤として用いる薬草園の管理が行われましたが、その医療行為は主として宮廷官人に対するものだったからです。当初は典薬寮とともに天皇への医療をおこなう内薬司が別組織として設定されましたが、896年には典薬寮と内薬司は併合され、朝廷における医療を全て管掌する機関となりました。
典薬寮の長官として典薬頭(てんやくのかみ)が統率し、実際の医療は医師(10人)、針師(5人)、按摩師(2人)、呪禁師(2人)で実践しました。さらに医博士、針博士、按摩博士、呪禁博士が任命されました。博士とは、現在の学位としての博士とは異なり、学生を指導する教授としての官位でした。これらの教員から医術を学ぶ医生(40人)、針生(20人)などの学生がいました。また薬園の管理をする薬園師(20人)と、その手段を学ぶ薬園生(6人)、さらに実際に薬園の手入れをする薬戸などがいたそうです。
これらは国の中央組織ですが、地方でもこれに準じて医療者組織が形成されていく制度になっていたようですが、十分に浸透していったのか否かは定かではありません。また中央政府の典薬寮も平安時代以降は朝廷内にだけその形を残すのみとなっていましたが、1869年、明治維新に伴う制度改革によって廃止されました。しかし7世紀の律令制により形成された機関が、1000年後の明治維新まで存続したという大変まれな存在でした。
典薬寮の役職として呪術師が設定されていたように古代の医療はやはり呪術的な色彩が強かったようで、典薬寮の最高責任者である典薬頭として732年には修験道の開祖とされる役小角(えん の おづの)の弟子であった韓国広足(からくにのひろたり)が就任しています。その後、典薬頭は和気清麻呂を開祖とする和気氏、そして現存する日本最古の医学書「医心方」を編纂した丹波康頼に始まる渡来系の氏族である丹波氏らが世襲することになっていきました。