医療あれこれ
医療の歴史(61) 鎌倉幕府を開いた源頼朝の死
平清盛は生前、後白河法皇を幽閉し、平家の専制政権を築き上げましたが、貴族や地方武士たちの平家に対する不満は強く、そのうちでも強大な勢力だったのは源氏の統領にあたる源頼朝(1147~99)でした。平家との争いの平治の乱(1159)で討たれた源義朝の三男で、本来なら一族すべて死罪となるところをまぬがれ伊豆へ流罪となっていました。後白河法皇の第2皇子である以仁王(もちひとおう)の平家討伐の令旨を受け、妻北条政子(1157~1225)の父北条時政(1138~1215)らと挙兵しました。頼朝の弟源義経(1159~1189)の活躍により平家を西国へ追い立て、長門国壇ノ浦の海戦で滅亡させたのでした。この時、ともに海中に没した幼帝安徳天皇(1178~1185)とともに天皇家の三種の神器のうち鏡と勾玉(まがたま)および草薙の剣も海中に没し、鏡と勾玉は回収されましたが、剣は見つからず後に伊勢神宮より奉られたといいます。
頼朝は平家と違って、都の政治にこだわらず征夷大将軍として東国に鎌倉幕府を開き武家を中心とした国を形成していくのですが、53歳で亡くなっています。死因は言い伝えによると相模川橋供養の帰路、落馬したことによるとなっていますが、吾妻鏡などの歴史書にも正確な情報は書かれていません。もともと武家の統領として担がれて幕府を開きましたが、弟源義経や従兄弟の木曽義仲など一族をことごとく死に追いやり真の味方がいなかったこともあり北条時政に暗殺されたなどとも言われています。
しかし落馬が本当だったとすれば、武士が簡単に落馬するものかなど考えると、何らかの原因疾患があったと想像できます。明治時代の医学史家・富士川游氏は頼朝の死因を脳出血であったとしています。脳出血の症状は比較的早く現れ、手足が麻痺してこれが原因で落馬したのではないかというのです。他方、脳血管疾患のうち脳出血以外に、以前より脳梗塞などがあり、これが原因で軽度の脳血管性認知症を患っていたのではないかと想像できます。さらに脳梗塞の原因として糖尿病を想定します。関白・近衛実家の日記に「前右大将頼朝卿、飲水に依り重病」という記載があるそうで、医療の歴史(53)で述べた藤原道長と同じくその当時の「飲水病」すなわち糖尿病の存在を考えるとつじつまが合います。脳血管性あるいは前回ご紹介した糖尿病性認知症の症状により衝動の抑制ができず、自分の兄弟に対しても懐疑心が強くなり、最終的に血縁をすべて殺害していったのではないかとすると幕府を開く前後の頼朝の行動が理解できると思います。